
ごとうにんシアターポッドキャスト「哲学のお椀」(哲腕)で触れた触れなかったりした作品たち。
第17・18椀 「ゆずれないものをやわらかくまもる」で紹介した作品を掲載します。
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第17椀 ゆずれないものをやわらかくまもる(前編)
第18椀 ゆずれないものをやわらかくまもる(後編)
・内田樹『勇気論』(光文社)

ここのところ、内田樹ばかり読んでいる。そういう時期もあるのだろう。『沈む祖国を救うには』と同じ時期に書かれたのかな。
オムニバスではなく、「勇気」というキーワードを掘り下げた一冊。面白く読めた。「勇気」「正直」「親切」はひと繋がりのことだという、理路が丁寧に語られている。
例により、含蓄に富むことが色々書いてあったが、要としては、2点。
・「勇気」とは孤立に耐えること
・そして、孤立に耐えることのできる人は「他者」の「他者性」に耐えることができるということ
ーだという。
なるほど。
踏まえつつ、ひとつ引用。
農業生産が始まったことで「非生産者=専門家」が発生します。
[…]
有閑階級=非生産者が従事した職業は、戦争、宗教、政治、スポーツ、学問などです。有閑階級は、たしかに食料は生産していませんが、それでもある種の「有価物」を創造してはいるのです。彼らが提供したのは「効率的な組織運営」とか「集団的熱狂」とか「嗜虐的快感」とか「宗教的法悦」とか「知的高揚」というようなものです。
[…]
「われわれは恐るべき敵と命がけの戦いを続けている」という物語でも、「われわれだけに選択的に好感を寄せる神によってわれわれは守られている」という物語でも、なんでもいい。
そういう物語を持つ集団は、高い結束力を持ち、その集団に帰属している成員たちに、ある種の自己肯定感を与えてくれる。そして、そういう「物語」を持っている集団は、集団をバインドする「強い物語」を持たない集団よりもフィジカルに強い。
[…]
なぜブルシットジョブがなくならないのかという問いの答えの一部がここにあります。
ブルシットジョブに専念している人たちは現代における「有関階級=非生産者」です。生産には従事せず、何の価値あるものも創り出さずに、「効率的な組織運営」とか「集団的熱狂」とかを創り出すことがこのブルシットジョバーたちの本務です。
[…]
それは「人間は金のために生きている」という幻想をふりまき、集団成員たちに「働くインセンティブ」を提供するという労働です。古代において呪術師やストーリーテラーたちが担っていた「物語を作る」仕事を、現代ではブルシットジョバーたちが担っている。
コンサルたちは目の前の数字を見て、その増減がまるで人間の生き死によりもずっと重要な出来事であるかのように、青ざめてみたり、烈火のごとく怒ってみたり、涙ぐんだり、満面の笑みをたたえたり•••することができます。そういう呪術的なふるまいを通じて、彼らは生産する人たちの「働くインセンティブ」に点火しているのです。その点では、太古における呪術者とそれほど違うことをしているわけではありません。
同著 P.224
まさにその通りだと思う。同時に、その「人間は金のために生きている」という「物語」はそろそろ賞味期限が切れな気がする。
おそらく我々、と言うか、少なくとも、我々の中の一部の人々は、別の「物語」が必要としているのだろう。多分、きっと。
そして、それは、誰かが作ってくれる物ではなく、自分で編まねばなない物なのだろうと思った。
それこそ、孤立に耐えつつ。
以下、もう一つ引用。
文明社会にもさまざまな「異族」や「野獣」は姿かたちを変えて燃選しています。例えば、SNSでの心ない書き込みのせいで自殺する人はいまも少なくありません。これは現代社会においても、「呪いの言葉」に人の命を奪うだけの力があることを示しています。「呪殺」なんて前近代のもので、もうそんな非科学的なものはなくなったと思っている人が多いかも知れませんが、そんなことはありませんよ。いまでも呪いは十分に有効です。
[…]
ですから、僕はSNSの荒野を歩く時には、太古と同じように、「こっちへ行くと、何か悪いことが起こりそうな気がする」と感じたら、足を止めて、そっと方向転換するようにしています。ディスプレイに並ぶ文字列を遠くから一瞥しただけで「これは読んではいけない」ということがわかる。「読むと魂が汚れるテクスト」「読むと生命力が減殺されるテクスト」というものがこの世には存在します。存在するどころか、巷はそういうテクストにあふれています。そういうものにはできるだけ近づかない方がよい。それを遠くから感知してアラートが鳴るような設定にしておく。僕はそうしています。
同著 P.246
今のメディアでは「いいね」により承認欲求を満たすのに飽き足らず、より安直に手っ取り早く注目を浴びる手段として、敢えて「炎上」するような投稿を繰り返す「炎上欲求」というものが目立ち始めている。
認知度を上げる「マーケティング」の手法を「クレバー」に応用しているつもりなのかも知れないが、その根っこは「ボクのこと見て」という泥みたいな「欲求」でしかない。「それを見ると、生命力が減殺されるテクスト」の一種だと思う。
私にとって、彼らは、例えば「ヘイトスピーチをするレイシスト」と同じくらい、「他者」な感じがするのだけど、その「他者性」に私は耐えることができるのか。
更に、そこに、何らかの関係性を架橋し得ることができるのか。それが、次に課せられる問いなのだと思う。
そして、また、私自身、うすうす気付き始めている。自分の中にも、やはり、今でも、「カレら」が居ると言うことを。
それを自覚することが、何らかの手掛かりになるのかどうかは、まだ分からないけれども。
目を逸らさず、孤立を恐れず、耐えて考えたい。
『勇気論』を読み終えて、そういう「勇気」も少しだけ、もらえた気がした。
・近廣直也 『どうげんぼうずという仕事』(TUK TUK CAFE)

この人の生き様はロックだ。そして、コレは「ソウルフル」な一冊だった。本当に。
例えば地域で事件が起こったときに、テレビのコメンテーターなんかがシタリ顔で「地域社会の崩壊が原因だ」って言うじゃないですか。でも、仮に地域社会の崩壊が原因だとしたら、崩壊した地域社会を再構築しようとしている大人を見たことがない。それは大人としてズルいやろって。原因がわかっとるんやったら何とかしなさらよって。ほんまは崩壊しとった方がええと思っとんじゃないかって。それを言い訳にできるでしょ。嫌いなんよね、そういう大人。
だから、崩壊した地域社会の瓦礫を一個ずつ積み上げようと思うとる。
同著 P.46
カッコいい大人っていうのは、頭が禿げ上がったとしても、下っ腹が出たとしても、ライダーキックをしようとする。すっ転んで、地画に頭をバンと打って、子どもに笑われたとしても、ライダーキックをしようとする。不細工をさらしとるんやけど、それでもやろうとするところがカッコいい。
そのおじさんも、自分が仮面ライダーになれんことはわかってますよ。でも、「まだ、できるはずだ」とライダーキックをして毎回、失敗する。
ワシはイスラエル大使館前で不細工をさらしてるって言ったでしょ。
それなんですよ。カッコよくも何ともないけど、自分なりのライダーキックをやっとるわけ。
同著 P.124
うん。背中を「ずいっ!」と押して貰える気がする。
「ギョーム」ではない、「大人の仕事」。
それを、どこまでサボらずにできるか。
私は私で、サボりつつかも知れないけど、それこそほそぼそと、空振りでも良いから、私なりのライダーキックを続けて行きたいと思う。
繰り返し思う。継続が力だ。
・安田菜津紀『遺骨と祈り』(産業編集センター)

フォトジャーナリスト安田菜津紀によるルポルタージュ。
併走する3つエピソードは地続きであることが語られている。
・福島県大熊町にて、東日本大震災の津波により行方不明となった愛娘の遺骨を探す木村さん。
・沖縄にて戦没者の遺骨の収集活動を行う具志堅さん。
・パレスチナの地でイスラエルが続けている連綿とした暴虐。
巻頭プロローグ
この本は当初、具志堅さんと木村さんの交流のみに焦点を当てて編もうとしていた。ところが2023年10月、イスラエルによるパレスチナ自治区・ガザ地区への軍事侵攻が始まる。
[…]
本気で歯止めをかけようともしない日本政府の姿勢に業を煮やしながら、思う。あの戦争と、戦後の日本社会と、現代の虐殺、その全てが一本の線でつながっているのではないか、と。
沖縄への負担押し付け、福島からの搾取、そしてガザ、パレスチナで起きている民族浄化、私はどれに対しても、この社会構造の中で「踏んでいる側」に立っている。
社会は踏まれている側ばかりに何かを求める。「もっと我慢しろ」、あるいは「もっと声をあげろ」「もっと怒れ」と。時に「憎まない」ことの美徳まで求められ、非暴力を掲げれば称賛される。けれども本来必要なのは、「踏んでいる側」から変わることなのだ。
その特権構造の真ん中にいる一人として、その軸足を忘れず、取材で出会った人たちのことを綴っていこうと。
同著P.18
そして、巻末エピローグ
今改めて、日本は問われているのだろう。過去の戦争責任を顧みない国に、現代の虐殺や軍事侵攻を止める力があるだろうか、と。
そしてまた、忘れてはならないことがある。イスラエルがパレスチナに対して強いていることと、「本土」が沖縄に対して続けてきた仕打ちは、歴史的な成り立ちは異なるものの、植民地支配とレイシズムが絡み合っているという意味では、重なるものがある。その犠牲をよしとする社会はまた、本土の中にも「周縁化」された場所を作り出す。
同著P.280
これらの事は、こないだ読み終えた、早尾貴紀『パレスチナ、イスラエル、そして日本のわたしたち』と、激しくリンクする。
つまりは、周縁からの収奪構造。
例えば、沖縄、アイヌ、福島、中国、韓国、東南アジアの国々、そしてパレスチナ。
グローバル資本主義経済による収奪や、それとリンクした地球環境問題だってそうだろう。
「踏んでいる側」の人間として、「何を」、「どの様に」踏み続けているのか。それを見つめ直し、「うしろめたさ」として自覚したい。
自覚への、その「入り口」は「日々の中に生じるちょっとした心の揺れ」にあるのだと思う。そう、「入り口」は自身と事態の間に、沢山の形で生じ得る。
「哀れみ」や「悲しさ」や「怒り」や「とまどい」や「ためらい」、場合によって「不思議に思うこと」や「好奇心」。
入り口に佇み、入り口をくぐり、歩を進めると、きっと「うしろめたさ」は「重み」を増すのだと思う。
私自身で、その「重さ」を知りたい。
そう思い、そして、また本を手に取る。
・早尾貴紀『パレスチナ、イスラエル、そして日本のわたしたち』(皓星社)

帝国列強諸国による、植民地主義「グレート・ゲーム」。パレスチナ/イスラエルの問題が、その現在進行形の延長線上にあるという、紛れもない事実。そして、日本は歴史的にそこに関与し、現在も荷担し続けているという事実。
読むことで、世界の解像度をかなり上げていただいた。例えば、わたしは、1993年に為された「オスロ合意」は無邪気に「善き兆し」であったと思っていた。だが、その実、「オスロ合意」はイスラエルによる植民行為を世界的に黙認するよう仕組まれた企みであり、ハマスが政権を取ったのは、その企みへの抵抗であったことなど。
世の中に不条理が存在することと、その不条理に我々も荷担してしまっている事実がじわじわと染みてくる。
***
興味深かったのは、第Ⅱ部「欧米思想史から見たパレスチナ/イスラエル」。マルティン・ブーバー、ハンナ・アレント、エマニュエル・レヴィナス、ジャック・デリダなどのユダヤ系の西洋哲学者が、パレスチナ/イスラエルの問題にどのように向き合ってきたかについて、整理し論じられている。そういう切り口を横串で眺める経験は、今までに無かった。
ブーバー、アレント、レヴィナスなどの思想家ですら、イスラエルという存在とその暴力性を否定し切れなかったという。
その中で、アルジェリア出身のデリダは、ヨーロッパを相対化し、ヨーロッパ的価値観の普遍性に強く疑義を挟み、所謂「脱構築」という思想でその解体を試みた。
デリダは、ユダヤ人としての「亡命性」「周縁性」を重視し、イスラエルという具体的な国家をアイデンティティとして依存することを避けていた。
デリダやジャベスにとって、ユダヤ人の〈場所〉は国境線に画定された国家ではなく、むしろ北アフリカの出身者らしく砂漠的な曖昧な広がりでイメージされる〈向こう〉、あるいはトーラーに対してラビ(宗教指導者)たちが解釈に解釈を重ねた「書物」の〈向こう〉、むしろ〈非・場所〉である。つまり領土国家イスラエルは拒絶されていると言える。
ユダヤ人は、領土国家にではなく「書物」に、砂漠で生まれた砂でできた聖書に、そして「砂漠」という場所ならざる場所に、帰属することなく帰属する「遊牧民=ノマド」であるという。
同著 P.126
また、ユダヤ思想家における、イスラム的なものの「不在」(黙殺)を指摘している。ユダヤもアラブも同じアブラハムという出自を持つ者ではずであるのに。
これは、熱かった。
『エクリチュールと差異』に触れてみたくなった。
また、ハミッド・ダバシやその同僚であり師でもある、エドワード・サイードといった思想家の存在も知ることが出来た。暫くは触れられないかも知れないが、心に留め置きたい。
***
最後に、巻末では著者自身の煩悶が触れられている。
凄まじい勢いで世界が崩壊に向かっている。暴力や差別や排除が加速している。
自分もその流れの内側に間違いなく入っていて、押し止めることなどできないのはもちろん、別の流れをつくり出すこともできず、無力さゆえに流されている。帝国の側のマジョリティとして構造的に加担もしてしまっている。
同著 P.307
この煩悶を、読み手として、自身でも引き受けること。
それは、「日本人」の加害性を改めて自覚すること。例えば、沖縄やアイヌ、そして朝鮮、等々、「日本人」が蹂躙し、未だに蹂躙し続けているものについて、「自覚」し、改めて目を向けることこと。とりあえず、わたしにとって今するべきことはそれかと考える。そこに、思い至らせてくれた一冊であった。
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