
ごとうにんシアターポッドキャスト「哲学のお椀」(哲腕)で触れた触れなかったりした作品たち。
第15椀 「生き難さ」と「生き易さ」と(ご視聴はこちらから)で紹介した作品を掲載します。
今回も、やっつけだ!
・マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神』 (岩波文庫)

冒頭の方で棚が触れていた古典。
「営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考」とのこと。
こりゃ、固そうだが、資本主義経済の起源を辿るための資料として、とても面白そうだ
彼も未読了らしい。。。
・高村友也『自作の小屋で暮らそう Bライフの愉しみ』(ちくま文庫)

未読本。
自分のための小屋を雑木林の中に作って、ひとりで暮らす著者が、そのコンセプトを記した本。
秀和システムから出版されている単行本『Bライフ 10万円で家を建てて生活する』が、同じ内容で文庫化されたもの。
ちなみに、収録ではちゃんと言及しなかったけれども、「10万円」というのは小屋代で、土地代は別途かかっているらしい。
読んだら更新したい。
・高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』(同文舘出版)

私には、「悟る」ということがどの様なことなのか、まだまだ、全くわからないし、きっと死ぬまでわからないのだろうけど、この人の思想は、ある種の「悟り」の境地を、既にギリギリまで見据えてしまって居るのではないかと思う。
「無」に対して恐怖を抱くという著者の気持ちは、理解は出来ないが、ほんの少しだけ、想像することは出来る気がする。
一方、「悟り」に至ると、「慈愛」に満たされるという言説を世の中ではしばしば目にする。
そして、「無」に対して「慈愛」を感じるということも、「恐怖」を感じるということと同じ様に、私には良く理解は出来ないが、それでも、ほんの少しだけは、想像することは出来る。
更には、それらはコインの裏表のように、見方の違いなだけで、表裏一体なのではないか。ーと言うことも、少し考える。
わからないけれど、兎に角、私自身は、そういう事柄をちゃんと見据えて考えることから、今現在、遙か遠いところで暮らしているということだけは、わかる。
だからこそ、そういう話に限りなく近接して生きている、この著者の「強度」に物凄さを感じる。
「死」ということは「生」と表裏一体。この著者の様に生きたい訳ではないが、それとは別に、何か、静かにそういうことを考えたり考えなかったりする時間を、私自身も、意識的に、もっと持って行きたいと思う。
・高村友也『存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ 』(青土社)

前述の『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』の後日譚。
哲学者であり、雑木林の小屋や河川敷のテントで一人で暮らしたりしている著者が、「死」というものと向き合う一冊。
著者は、死によりもたらされる「永遠の無」が恐ろしいという。
死を迎えることで、生きてきたことは無に帰す。その様に、死と生をメタ認知した「外部の問題」を前提にすると、「どう生きるか」という「内部の問題」は意味をなさなくなり、文字通り無化される。
死の定義は人それぞれにその人の真実としてあるし、そこには、どうしたって理解を超越する差異もあったりする。死を「永遠の無」と捉えて、その圧倒的な存在を恐れる、というのも著者の「内部の問題」であり、文字通り、その差異の理解には、越えられない溝があり得る。
その「内部の問題」に向き合うことは、しかし、「死」という切り口で「生」と向き合うことでもあるーということなのかも知れないし、著者はそれをしようとしている、と言うことは分かる。
私は、果たして、私自身の死をどう捉えているのだろうか。
書中、しばしば引かれていたウラジーミル・ジャンケレヴィッチの書にもいつか触れてみたくなった。
時間に煽られず、こういうことを、唯、ひとり、ゆっくりと内省する時間が欲しいと思う。
・北野武監督 映画『Sonatine』

「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ。」という台詞が登場する映画として、棚が収録の中で触れていた作品。
所謂、「ヤクザ」の世界を描いた映画なのだと思う。北野はこの世界を多く取り上げている気がする。
「死」というものが身近にある世界なのだろうけど、観ていないので、私自身は内容について語り得ないのだが、久石譲の音楽が美しいとのことで、とりあえずそこから聴いてみようと思う。(高校生の頃に、サントラだけは聴いた気もする、、、)
・デヴィッド・グレーバー 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)

重厚長大な一冊だった。課題図書を何とか読み終えた感。
ここに書かれている、個々人の経験談の群れは、(多少の誇張があるかもしれないけれど)それぞれの語る「真実」として、「社会学的」に、もう少し取り上げられても良いのではないかと考えた。向き合うには骨が折れるけれど。
いずれにせよ、著者が「ブルシット・ジョブ」と呼ぶ「それら」が発生する背景は想像がつくし、我々が無意識的にせよ、意識的にせよ依存、ないしは加担している資本主義というものの「有り様」の一形態なのだろう。
つまり、社会的に必要ではない製品/サービスであっても、兎に角、継続的に、新しい「付加価値らしいモノ」をくっつけて、新しい「製品/サービス」として、提供し続けること。それをやめることが出来ないこと。それが資本主義の宿痾だから。ーと言うのが、おそらく、「それら」の発生源じゃないのかと。
本書ではそう言う切り口では、資本主義との関係について、明確には触れてなかったけれど。解決の糸口として、ベーシック・インカムを提唱していたのは良い視点だと感じる。
著者(アナキスト・アクティビストでもあったとのこと)は2020年に亡くなっており、遺作となった本書。我々は、この「ブルシット・ジョブ」の陳列棚と、その向こうにある社会、というか我々自身と、どう向き合うか。
後半の6章以降、もう少し時間をおいて、また触れなおしてみたい。
・ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』 (集英社)

近頃、棚が「むっちゃ面白い!」と激推しして来る1冊。
新自由主義の最先端を突っ走るGAFAMのようなデジタル・プラットフォーマーがすでにデジタルな「領地」を「領主」として囲い込んでおり、我々は、下僕として奉仕し続けるしかないという、ポスト資本主義ディストピア的なことが描かれているのではないだろうかと想像。
「早く読み終えて、端的にまとめて解説してくれ」とお願い中だけど、読了はまだの模様。
今後の棚の解説に期待!
・スピノザ『エチカ』 (岩波文庫)


高い、高い峰。その名に「倫理学」を関するこの書物。
もちろん、未読。
死ぬまでには是非に、読み通したい。
今の私はまだまだ、『エチカ』について語ることができるほど、彼の哲学に精通していない。
ので、はるか先になると思うけれど、読み終えたら更新したい。できるかな。。。
・スピノザ『知性改善論』 (岩波文庫)

収録では触れていないが、『エチカ』の入り口にあたるであろう、『知性改善論』。(読んだのは講談社学術文庫版だったけど)
とても薄い1冊なのだが、いやはや、なんとも堅かった。何度も何度も何度も読み返しつつ、國分功一郎『スピノザ』(岩波新書)や、上野修『スピノザの世界』(講談社現代親書)をガイドとして頼りつつ、何とかかんとか読み通した。それでも、そして、まだまだ、理解出来ない所がおそらく山ほどある。のだが、ひとまず。
「私が知るためには、私が知るということを知る必要はない」
果たして、『エチカ』の入り口に立てて居るのだろうか。甚だ心許ないが、『エチカ』の門を叩いてみたいと思う。
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