ごとうにんシアターポッドキャスト「哲学のお椀」(哲腕)で触れた触れなかったりした作品たち。
第11椀「自分」とは何か?(ご視聴はこちらから)で紹介した作品を掲載します。
今回も、やっつけだけれど、いったん掲載。
・下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文芸春秋)
たなが「朝ストレッチのやる気が起きない件」について、中動態の文脈に絡め、古代ギリシャ人の概念を引いて来ていた一冊。
哲学と共にある3000年の心の歴史を辿る。
実は、昨年の誕生日にたなからプレゼントしてもらっていたのだけれど、まだ序盤のみ読んでしばらく寝かせており、積読1番地に鎮座し続けている。
読み終えたら、いずれまたいつか、更新したい。
・ゆらゆら帝国『3×3×3』(ミディ)
1998年リリース。
たなが良く聴いていたと言っていた「ゆらゆら帝国」から、収録で話が出てきた『昆虫ロック』が収録されている1枚。
聴いたことがなかったバンドだったのだが、これを機に聴いてみた。
むっちゃ格好良かった。
どこかノスタルジックな雰囲気を纏いつつ、気骨の籠ったロックな歌詞がしっかりと載っている。
「言葉」に拘りを感じる。足早に、それこそ消費するような聴き流し方はしたくない。1曲1曲、しっかりと聴きこみたいと思えたバンドに出会えたことは幸福だ。教えてくれてありがとう。
雨が降る日は何もしない 髪がベタベタするから 風が吹く日も何もしない どこか消えたくなるから
確かに中動態の気配がする。
・THEE MICHELLE GUN ELEPHANT『Chicken Zombies』(コロムビアミュージックエンタテインメント)
1997年リリース。
収録曲では『ゲット・アップ・ルーシー』、『バードメン』あたりも有名だと思うけれど、第11椀でたなが引いていた曲は『ブギ』。
髪は伸びすぎた 切らなくちゃ 切らなくちゃ
ー行き場のなさ、戻る場のなさが淡々と。
個人的に彼らの曲で一番好きなのは『世界の終わり』なのだけれど、通底するその寂寥感をこの曲にも感じた。
それは兎も角、ゆらゆら帝国の『昆虫ロック』から「髪」という言葉を依代に、この曲に頭が飛ぶものかね、しかし(笑)
・ピーター・ブルック『ピーター・ブルック回想録』(白水社)
たなが第11椀で言及していた、20世紀の演出家ピーター・ブルックの自叙伝。
あるアフリカの村で、語り部が話の終わりにくると、手のひらを地面に置いて言う。「ここに話を置きましょう」。そして、つけくわえるのだ。「いつか、だれかが続けられるように」
話を置く。
話をお椀に盛る。放り込む。
良いね。そうして話を紡いで行こう。
・木城ゆきと『銃夢』(講談社)
中学だか高校だかの時に夢中で読んだ作品。
空中都市ザレムに支配された世界。ザレムからの廃棄物が降り積もるクズ鉄町で強かに生き残びる人々。その際立つ対称性、隔絶が、物語が進むにつれ、混然一体となる。
サイバネ技術で全身サイボーグと化し、高い格闘能力でバウンティーハンターを生業とする主人公。その他、全身サイボーグとして登場する、敵味方、数多のキャラクター達も、頭部(脳)だけはオリジナルとして、描かれている。
「自分」(オリジナル)とは何だ、ということを問いかける作品だと思う。
※ちなみに、昔は集英社から出てた作品だったらしい。よく覚えてないけれど。
・グレッグ・イーガン『祈りの海』(ハヤカワ文庫)
第11椀では触れなかったが、流れでご紹介。友人の勧めてもらった一冊。
SF短編集なのだが、意識とか、時間とか、魂とか、宗教とか、AIとか、生物工学とか、量子力学とかーテクノロジーを通じて「人間とは?」、「自分とは?」を問う、非常に哲学的な良作。
『ぼくになることを』をはじめ、テクノロジーによって「自分」というものの概念が揺さぶられる話が多く掲載されている。「銃夢」からの連想だが、テーマは通底していると思う。
・穂村弘『世界音痴』(小学館)
第11椀では「詩人」として触れちゃってたけれど、「歌人」の穂村弘さんのエッセイ。
信号の色を気にしていたら事故った(※)、という件が収録されているらしい。
ちょっと読んでみたい。
※)尚、実際に事故った訳ではないらしいという後日談。
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