ごとうにんシアターポッドキャスト「哲学のお椀」(哲腕)で触れた作品たち。
第7椀(ご視聴はこちらから)で紹介した作品を掲載します。
・坂口恭平 (著), 道草晴子 (イラスト)『生きのびるための事務』(マガジンハウス)
「『事務』とは抽象的なイメージを数字や文字に置き換えて、『具体的な値や計画』として見える形にする技術です。その『具体的さ』というものには命が宿るんですよね」
「ごとうにんシアター」は、自分の中に生まれた「こんな場があったら良いな」という「抽象的なイメージ」なのですが、構想を誰かと共有したり、イベントとして実現するにあたって、何か手ごたえのあるとっかかり、もしくは足場のようなものが必要でした。手ごたえのあるとっかかり、もしくは足場のようなものを坂口恭平さんは「事務」と呼んでいました。
また別のイメージが浮かんできました。わたしの頭の中の抽象的なイメージは、風船の中に入ることを約束されている無味無臭のガスのようなものです。そこにそれはあるのですが、それ単体では、誰にも気づかれない。そこで風船という「事務」の出番です。風船という具体的な「事務」によって、わたしの頭の中の抽象的なイメージ、その無味無臭のガスは色と形を与えられ、空にのぼっていきます。
「ごとうにんシアター」はこの1年間、まさに「生きのびるための事務」によって生きのびてきました。
・國分功一郎『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)
スピノザの思想は、東洋哲学に通ずる「何か」があるとずっと思っている。また、最近興味を持っている、ジル・ドゥルーズが、スピノザを研究していたということもあり、どうしても魅かれてしまっている。
その、スピノザの生き様を、その著作を読み解きつつ辿る一冊。世の中に、そのような本は数多ある。が、『中動態の世界』や『暇と退屈の倫理学』に触れてから、何となく國分氏の姿勢に共感しつつ、本書も手に取る。
内容は、固い。噛み応え、十分過ぎる。歯が折れそうだ。
過去の彼の著作でも触れられていたが、「通読すること、そのもの」を「体験すること」が大事だったと感じた。そして、『エチカ』や『神学・政治論』にもいつか当たってみたい。
尚、同著後半で、國分氏は、「永遠」(および、「時間」)について、スピノザの『エチカ』の「定理」を引きつつ、以下のように触れていた。
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永遠そのものをスピノザは次のように説明している。永遠は時間によっては規定されない (第五部定理二三備考)。永遠は時間とは無関係であって、いつとか以前とか以後などと言うことはできない(第一部定理三三備考二)。また永遠は必然性とも言われている(第一部定理一〇備考)。精神の永遠性、そして身体の本質を永遠の相のもとに理解することの可能性を確認した今、これら、永遠そのものについての説明から、ある一つの像が浮かび上がってくるように思われる。 永遠とは、必然性において捉えられた―ある意味で空間的な―因果関係の連なりの全体のことではないだろうか。
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(P340「永遠性」より)
この箇所だけでも、「時間」というものについて、ものすごく豊潤なイマジネーションが喚起されるのでした。
・ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波少年文庫)
ミヒャエル・エンデ『モモ』。
NHK BS1スペシャル『コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ』で取り上げられていて、思い立って読んでみた。
思えば、小学生の頃読んで以来。
そして、物語に出てくる人達に起こった「災厄」に対する、読む側としての「我が事感」は、子供の頃に読んだ時には、やはりここまで切実には感じなかったと思う。大人になって、改めて身に染みることのひとつ。
「時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです」
嗚呼、全くその通りです。
そして、僕らは今でも時間どろぼうに時間を盗まれ続けている。もしくは、僕ら自身が時間どろぼうなのかも知れないけど。
そういう事をまた少し、ちゃんと噛み締めて生きたいと思う。
・河合俊雄『ミヒャエル・エンデ「モモ」』(NHK100分de名著)
河合隼雄さんのご子息の、河合俊雄さんによる、『モモ』の紹介した100分de名著のテキスト。
『モモ』原著に触れる前に、ざっとおさらいというか、外観をつかむのには打ってつけ、かつ読めば、きっと、原著に触れてみたくなること請け合いの一冊。
河合氏の優しさに包まれた文章が染みます。
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