ごとうにんシアターポッドキャスト「哲学のお椀」(哲腕)で触れた作品たち。
第3椀までに紹介した作品を掲載しました。
今後とも「哲椀」で触れた作品について、少しずつ掲載して行きたいと思います。
★★★★★ 第3椀 ★★★★★
・岡 真理『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義』(大和書房)
第2椀でも少し触れた、ガザの話。
無関心と忘却と言うものは、いつも私達自身に巣食っていて、気がつけば、それに蝕まれている。
パレスチナについても、そう。
「ガザとは何か」を問うよりも「イスラエルとは何か」ーその建国の背景から、それを成り立たせている政治的な力学を含めて理解する事が必要だと書かれている。
そこには、帝国主義的な植民地と同様、征服者と被征服者の非対称性がある。著者が言うように、暴力や報復の連鎖、という表現は、確かに少し違うのかも知れない。応酬と言うより、明らかに一方的な側面がある。
そして、ガザの悲惨な状況は、勿論、今に始まった訳ではなく、ずっとそこで起き続けてたこと。
目を逸らさずに居続ける事の難しさを嚙み締めつつ、それでも、なるべく目を逸らさずに、忘れずに、日々を生きたい。彼の地で日々を生きる人々のためにも。
・永井玲衣『水中の哲学者たち』(晶文社)
第2椀の終盤でも、ちょっとだけ触れた、作品。
「哲学と対話」という、当コーナーのテーマに照らしても、ドストライクなテーマの一冊。
「問いを立てる」ことの大切さと、楽しさが兎に角ポップな文体でちりばめられている。
そして何より、「哲学」に向き合うハードルを下げてくれる。
「問いを立てること」が「哲学」なのだ。
そして、「問いを立てる」ゆとりを、日々の中に持てる、そんな人生を歩もう。
本気でそういう気にさせられる、元気の出る一冊。
★★★★★ 第2椀 ★★★★★
・坂上香『プリズン・サークル』(岩波書店)
・坂上香監督作品 映画『プリズン・サークル』(2020年)
「受刑者が互いの体験に耳を傾け、本音で語り合う。そんな更正プログラムをもつ男子刑務所がある。埋もれていた自身の傷に、言葉を与えようとする瞬間。償いとは何かを突きつける仲間の一言ー。」ー書籍の裏表紙にはそんな文が添えられている。
加害と被害。罪と罰。それは、「犯罪」という領域に限らず、程度の差こそあれ、日常の人間関係にも生じ得る。家庭で、学校で、仕事で、様々な活動で。関係性が縺れたり、行き違いや、理解や配慮の不足、過度な干渉、、、様々な「背景」があって、お互い、傷つけたり、傷つけられたりする「事柄」が起こる。
けれども、我々は、発生した「事柄」の責任の所在を、特定の箇所へ局所化する傾向がある。そして、その「背景」は触れられることがあっても、それよりも「事柄」や「責任」の取り扱いが、より重要視される傾向がある。
國分功一郎が『中動態の世界』で折に触れスピノザを引用しつつ、述べたかったことの一端がとても深く関わっていると思う。
人と人(若しくは「事柄」)との関わりは、時間を経て、空間を経て、網の目のように、広がっている。何が、個々人の行動のトリガーなのか。それは自身の「意志」だったのか。國分は、そしてスピノザは、その意志を否定する。
この考え方は、現代社会の「法」の観点・考え方とは異なる。容易に紐解けない、とても難しい問題。
やはり、当事者、そして関係者が、それぞれに「背景」と「事柄」へ向き合って行くこと。それを以てでしか、解きほぐし得ないのかも知れない。
・坂上香『根っからの悪人っているの?』(創元社)
『プリズン・サークル』のスピンオフ書籍。
中学生か、大学生までの4人の若者を中心に、加害/被害に関与した当事者を交えた対話が展開される。
対話の中身も良いのだが、回を重ねる毎に4人の問題へ向き合う思索が深まって行く「プロセス」が俯瞰出来て、対話を考えるうえで参考になる。
・國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
能動ー受動の対立、意志と責任。そして、それらとは異なる中動態の世界観。自分の中に何かの種が埋め込まれた感じがする。いつ、何が、発芽するのかわからないが、そんな予感がある。
文法的な論考もあり、なかなか、歯応え(読み応え)のある一冊だが、きちんとテーマを意識しながら向き合いつつ完読すると、マラソンを完走したような、ある種、心地良い読後感に包まれた。
・國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)
人はパンがなければ生きていけない。
しかし、パンだけで生きるべきでもない。
私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。
生きることはバラで飾られなければならない。
(本文より)
本当に大事なコトが色々書いてある。
余暇は本当に大切。
考える時間を持てる贅沢。
我々にとってのバラである。
それをしっかりと味わって生きたい。
★★★★★ 第1椀 ★★★★★
・マーシャル ・B・ローゼンバーグ『NVC人と人との関係にのちを吹き込む法』(日本経済新聞出版)
アメリカの臨床心理学者マーシャル・B・ローゼンバーグによって体系化されたNVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)に関する、わかりやすい解説書。単なる対話の手法というよりも、もっと包括的な「思想/考え方」といった方が適切な気がする。
対話を進めるうえで、観察(Observation)、感情(Feeling)、ニーズ(Need)、リクエスト(Request) の4つの要素を主軸に置く。
それにあたって、(良い/悪い、好き/嫌いなどの)「評価をしない」ことが大事。言うは易し、行うは難しだが、日々精進したい。
NVC Singapore × ごとうにんシアター コラボ企画『「わかり合えない」を聴くところからはじめる』でも触れました。
・大澤 真美,中村一浩,植田順,野底稔『ことばの焚火』(サンクチュアリ出版)
NVCとはまた、ちょっと趣が異なる、「対話」についての一冊。
本の構成としては「対話」について、4人の著者によって、順に語られている。短い本だけれども、同じ趣旨だったり、違う解釈や表現だったり、それぞれの「対話観」が述べられている。
・「対話」において、目的やゴールを設定しない。つまり、結論を出さないし、何かを解決しようとしない。
・場に出された(くべられた)言葉に対して評価(判断や解釈)をせず、ただ観察し味わう。
・その言葉に触れて生じた、自身の感情に対しても評価(判断や解釈)をせず、ただ観察し味わう。まさに焚き火を眺める感覚。(湯船につかる感覚、川の流れに身を任せる感覚にも例えられていた)
・「対話」での発する言葉は、相手に向けて伝えあう、つまりキャッチボールするように、受け取って投げ返すイメージとはちょっと違う。
・「対話」での発する言葉は、即ち「場」に出された言葉、置かれた言葉。焚き火に焼べられた薪。もしくは、水面に投じられた小石。そのようなものとして「眺める」。
・そうして生じた焚き火の変化や、水面の波紋の広がりを眺めることで、自分がどう感じたか。それを「観察する」。
・さらに、その感じたことを、言葉にして場に出してみる。置いてみる。くべてみる。投じてみる。
・もしくは、無理にそれをする必要もなく、只々眺めるのみ。つまり、沈黙であっても良い。または、場合により、少し(若しくは全く)関係のないことを場に出して(置いて、くべて、投じて)みても良い。
これらは、「保留」するという態度で、表現されていた。
目的を作らない。判断しない。評価しない。自分や他人の発話により、自分や場に生じた変化を、眺めてみる。(観察する)。必要に応じて、ずらしてみる。
それ、即ち、「保留」。
対話をすることで生じる「メタ認知」作用。
何かを眺めつつ、揺蕩うような、そんな対話をしてみたい。
・マルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫)
第16代ローマ皇帝にて、五賢帝最後の一人。その人の著。
田村由美の『ミステリと言う勿れ』という漫画に登場して、その知名度も上がってきたかも。
周辺民族の侵攻に対する防衛の最前線で、日々、指揮を取り続ける中、自らを律するように書き留められた手記。繰り返し、繰り返し書かれているのは「今、ここ」を生きることの大切さ。または、自身を苛むのは自身の主観であり、逆にそこから解放された心は、自身を護る砦となる、ーというような趣旨の記述。不思議なことだが、東洋哲学(特に禅)にも通じる思想が、ひたすら取り止めもなく散りばめられている。
「全体としての時、全体としての物質をつねに思い浮かべよ。またすべての個々のものは物質の点では無花果の種のごとく、時の点では錐の一ねじのごとくであることを思え」(10巻17章)
何度も、何度も読み返し、味わいたい一冊。
コメントを残す